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龍馬・脱藩期
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■場面12 姉・栄の自刃
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吉村虎大郎と宮地宜蔵が脱藩して18日後、文久2年(西暦1862年)3月25日。龍馬は同志・沢村惣之丞(関雄之助)と共に脱藩した。土佐藩脱藩第2号である。旅銀10両を親戚にあたる弘光左門から借用している。(異説もあり) 虎太郎の「国抜け」が誘い水となったように次々と脱藩者が出るようになった。 「やちもない。こんなせまいくにおれるか!」 「せにゃいかんことがある。行くぜよ!」 脱藩した志士達は、数年後にはことごとく倒れていき維新の捨て石となった。これら、「龍馬になれなかった男達」の末路は、どんなドラマより悲惨で痛ましいものがある。 龍馬は道中の護身用にと、才谷屋秘蔵の刀を手に入れようとしたが、既に事情を察していた兄の権平が家中の者に「龍馬に刀を渡してはいかん」と根回しをしていて出発寸前まで刀は手にすることができなかった。 ところが、柴田作右衛門とついたか離縁となって家に帰っていた次姉の栄が、ひそかに、龍馬に家伝の宝刀を用立てた。栄はこの責任をとって龍馬が脱藩を決行した3月24日の夜自刃して果てた。栄の遺体はこの日の内に、身内の者達の手によって密葬されたと言う。(異説もあり) 3月25日、兄・権平は支配の福岡家に、「龍馬が行方知れずになった」旨届けを出し、2日後の27日に「刀が紛失しております」と屈けているが、栄の白殺には言及していない。 栄は坂本家の人々によって語ることをタブーとされた悲劇の女性であるが、昭和42年に密葬塚?より掘り出され、妹・乙女の隣に墓が建立された。(掘り出された人骨が栄のものかどうか、異説がある) 五月空晴れて龍馬の落し差し の一句がたむけられている。 | |
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■場面14 勝海舟と運命の出会い
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左から、 勝海舟、千葉重太郎、龍馬。 |
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龍馬は勝海舟に直談判に押しかける前、干葉道場の師・千葉重太郎に相談をもちかけている。 重太郎が間うた…。 「もし勝が耳を傾けなかったら、お主どうする」 龍馬が眩しげに目を細めて答えた…。 「目ざわりじゃき、北辰一刀流で斬るだけのことよ何喃」 龍馬が勝海舟を斬る覚悟をして勝邸に出かけ、勝の先見と洞察カに触れて飜然と私淑する事となったのは、文久2年(西暦1862年)10月。この時、勝・40才、龍馬は28才であった。 勝海舟は禄高40俵の小晋請組・勝左衛門太郎惟寅の子として生れ、幕府軍艦奉行となった。幕府の要職にありながら海舟は幕府260余年の命運の行方を察知していたようだ。オランダの軍艦に乗ったり、サンフランシスコに渡ってアメリカ社会とじかに接触するうち、幕府政権の歪みをはっきりと悟っていたのだ。 勝は、幕府の高官達にアメリカ事情を説明する席上、 「私がアメリカにて最も驚きし事は政治に際しては、賎民の出なりとも有為の人材なれば登用し、名門に属せりとも無為の人材なれば排斥することにあり…」 と述べ、列席の家老・重臣達に「無礼者!!」と大喝されている。 龍馬が、土佐勤王党の同志・桧垣清治に「長い刀は実践の役に立たぬ」と言って短い刀をすすめ、次に会った時は懐中よりピストルを取り出して一発ブッ放して驚かし、3度目には「萬国公法」という1冊の本を差し出して「これからは学問が何より大切だ…」と言ったという話は、開国開港・海軍立国者であった勝海舟の影響まことに大であった龍馬の姿を示している。 勝は龍馬に活躍の場を与え龍馬は勝の期待に応えた。 龍馬は海舟に会ってより3カ月後に、「海軍をやらんか」と言い同志を募っている。神戸「勝塾」の開設である。河田小龍をはじめ近藤長次郎。足軽の岡田以蔵も勝海舟の用心棒役として参加した。船は幕府が新しく買入れた400トンの新型船「順動丸」であった。 文久3年(西暦1863年)2月25日、龍馬29才。勝海舟の尽力で脱藩の罪が許された。 | |
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