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龍馬・活躍期
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■場面17 日本商社の原型「亀山社中」
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左から、 グラバー、執事、高松太郎/龍馬、近藤長次郎。 |
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慶応元年(西暦1865年)5月、薩摩藩の援助のもとに新しく海運貿易業を始めるべく、龍馬とその仲問達が創設したのが、日本で初めての株式会社とも言われる「亀山社中」である。(長崎市伊良林町) パトロンは勝海舟と親交のあった土地の豪商・小曽根乾堂で、薩摩藩家老小松帯刀が政治的に援助した。 龍馬はこの時、武土階級以外の一般市井の秀才達を、仲間に引き入れている。 長岡謙吉は町医者。新宮馬之助は鋳かけや、近藤長次郎は菓子屋であった。 同年9月9日、龍馬は姉乙女に宛てて「2丁目赤づら馬之助、水道横町の長次郎、高松太郎…ら20人ばかりの同志引つれ、今長崎の方に、出稽古方仕り候」と書き送っている。 勝海舟が幕命によって江戸に召還され「神戸勝塾」が閉鎖されると、全員亡命者として身の危険に当面した龍馬以下20人余りの若者達は、鹿児島より小松帯刀について長崎に来て、伊良林の亀山の上に建つ小さな宿舎に合宿し、主として薩摩藩の物資を輪送する業務についた。薩摩藩からは毎月3両2分の生活費が支給されていた。 この頃、長州藩は37,000両を投じ、薩摩藩の名義を使ってグラバー商会から「ユニオン号」を購入している。小松帯刀が、「開聞丸」に乗って神戸より長崎に来る時龍馬達を世話した土佐藩士・近藤長次郎は、この時龍馬の片腕となってユニオン号(桜島丸、のち乙丑丸、船価37,200両)購入斡旋に尽カした。 後に長次郎は、長州藩の後押しで「イギリス留学」の恩典を受けることになっていたが出港目前これが仲間に知れ「同志の盟約に背いたぬけがけである」として詰腹を切らされている。切腹の座は同志がととのえ、長次郎はこの席で腹を切った。慶応2年(西暦1866年)1月14日夜、29才であった。 龍馬は後に長次郎の自殺を京都で聞き、「術数余り有って至誠足らず。上杉氏(近藤長次郎から上杉宗次郎と改名していた)の身を滅ぽす所以なり。」と才子の死を惜しんだ。 近藤長次郎の墓は長崎にある。 | |
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■場面18 薩長同盟設立
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左から、 西郷隆盛、小松帯刀、龍馬、桂小五郎。 | ||||||||||||
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慶応2年(西暦1866年)1月、龍馬は薩摩の西郷隆盛、小松帯刀を尋ね「幕府の長州再征の動向と孤立に悩む長州藩・桂小五郎の苦衷」を話し、桂を尋ねて「面子などは捨てて薩摩藩と手を握る」ことをすすめた。 「国内に分裂が起り、海外よりの危機が迫っているイギリス・アメリカ・フランス・オランダ4カ国の艦船が慶応元年5月、兵庫に現れている)現段階では、日本の二大雄藩である薩摩・長州両藩の結束によって<幕府の専制体制復活を狙う私戦>をくい止める、“連合統一”こそ急務である。」ことを納得させ、両者を会談させる仲介役を果たしたのである。 同年1月22日、かくして軍事攻守同盟「薩長同盟」は成立した。 慶応元年の末に中岡慎太郎が「自今以後天下を興さん者は、必す薩長両藩なるべし。吾思ふに天下近日の内に二藩の命に従うこと、鏡に掛けて見るが汝し。面て他国体を立て、外夷の軽侮を絶つも亦此二藩に基くなるべし。」と土佐の同志に宛て送った手紙の通り、これより日本の歴史は薩長を主軸として展開していくことになる。 同年6月、幕府・長州の両軍は衝突したが、暮府は7月20日に大阪城中にて死去した将軍・家茂の喪を口実として休戦しなければならない程衰微していた。
「薩長盟約」ヘ龍馬署名す。
立会人として裏書きを求められた龍馬は、次の如き署名をしている。 丙二月五日 坂本 龍
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