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龍馬・晩年期


■場面23 船中八策

船中八策




左から、

龍馬、長岡謙吉、後藤象二郎、土佐藩士4名。

 慶応3年(西暦1867年)、龍馬は海援隊文司の長岡謙吉を伴い、後藤象二郎と共に土佐藩船「タ顔」に乗り込んだ。船が平戸島の沖にさしかかった時、長岡謙吉を呼び口頭をもって書き取らせたのが、有名な「船中八策」である。

、天下の政権を朝廷に奉還せしめ、政令官しく朝廷より出づべき事
、上下議政局を設け、議員を置さ、万機を参賛せしめ、万機宜しく公論に決すべき事
、有材の公卿・諸候及び天下の人材を顧間に備へ、官爵を賜ひ、宜しく従来有名無実の官を除くべき事
、外国の交際広く公議にとり、新たに至当の規約を立つべき事
、古来の法令を折衰し、新に無窮の大典を撰定すべき事
、海軍宜しく拡張すべき事
、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべき事
、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべき事家に二主なきごとく、国に二帝あるべからず。政刑唯一君に帰すべし。

国体を協正し、万世万国に恥じぬ公法の元祖とも言うべき「公議攻体」思想の原型は、こうして海の男・龍馬が海の上から発表した。



■場面26 近江屋の惨劇

近江屋の惨劇




左から、

龍馬、中岡慎太郎。

 龍馬は、人には「命を大切にせよ」と説きながら「心の公明と寛大にまかせ、とかく用捨なき人であった」と木戸孝允は言っている。
 寺田屋の危難の後、下宿酢屋での幕吏の探索など、龍馬の身辺には常に捕吏刺客の影があった。定宿の醤油商・近江屋では裏庭の土蔵に密室を造り、万一に備えて裏手の誓願寺へ逃れる道も用意してあったが、運命の日、慶応3年(西暦1867年)11月15日の龍馬は風邪気味で、土蔵の隠れ家から母屋の2階に移っていた。
 この日の夕刻、中岡慎太郎が龍馬を訪ねて来て共に危難にあった。
 十津川郷士と名乗る覆面の武土が元相僕取りの下僕藤吉(醜名・雲井龍)に取りつぎを頼み、龍馬のもとへ案内しようとした藤吉を斬り伏せる。藤吉の倒れる音を聞いた龍馬が「ほたえな!」と声をかけた所へ2人の刺客が飛び込み、1人が中岡の後頭部を、1人は龍馬の前頭部をないだ…。中岡はこの時「こなくそっ」と言う伊予弁(又は土佐西部地方の訛り)の掛け声を耳にしている。(「こげなくそっ」と言う薩摩弁もある)
 龍馬・慎太郎の刺客は、京都見廻組与頭・佐々木唯三郎以下、今井信郎・渡辺吉太郎(篤)高橋安次郎・柱準之助・土肥仲蔵・桜井太三郎の7士と言うのが定説となっているが定かではない。
 不意を襲われた両人は鞘を払う暇もなく、龍馬は頭部に二創を受けて絶命、中岡は翌々日の17日「王政復吉の実行は岩倉具視卿に頼るほかはない」と言い残して絶命した。身に十数創を負っていたと言う。慎太郎には暗殺者が何者であるか分っていたと思われるが、周囲の人達にその名を明かさず、あくまでも「志士の体面」を至上として死んでいったのだろうか。沢村惣之丞達海援隊の猛者16人が京油小路の左幕派の拠点「天満屋」惣兵衛方に仇討に走った夜襲は折から居合わせた新撰組隊士の抵抗に会い成果があがらなかった。
 お龍はこの時長州(下関)阿弥陀寺町の伊藤助太夫方で厄介になっており、左柳高次(海援隊士)の早馬で、龍馬の死を知らされた。
 海援隊長・坂本龍馬は33才。
 陸援隊長・中岡慎太郎は30才であった。
 これからわずか24日後、王政復吉の大号令が発され、日本政府は明治新政への首途についた。


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